用心、用心 (自戒) 2

主人公が過ちを犯すことについて。

主人公が明らかな過ちを犯すことは、物語の最初に限ったことでもない。

たとえば、機動戦士ガンダムのアムロ。
ウジウジ悩んでホワイトベースを脱走する。観ているほうは、「気持ちは分かるがそれはダメだろ」と思いつつ見守る。
観ている側としては、アムロってホント、ダメなところあるなあ、と、思う。
それで、アムロを嫌いになるか? どうだろう? そうでもない……というか、あの出来事によって、さらにアムロを好きになった人もいると思う。私はそのひとり。

脱走先で、アムロは家族関係の辛い現実に直面する。
帰ってきたら、こんどはブライトさんに殴られ、謹慎処分。ひどい。
かなり、自分の犯した過ちによって、ひどいめにあっている。

主人公のダメな性格の原因をさらに深く理解し、同情できるようになる。
そして、本人、かなりひどいめにあう。

その辺りがポイントなんだろうか。

たとえば、スター・ウォーズ 帝国の逆襲のルーク。
ジェダイの修行が終わっていないのに、ヨーダの制止さえ振り切って、ダースベーダーとの対決に行く。
そりゃダメだよ、ルーク!
でも、それで「ルークはバカだからきらい」とはならないと思う。まあ私はもちろんならない。ええ、なりませんとも。

困難に放り込まれた友人たちを放っておけないという明確な、同情し得る動機がある。
結果、もう、ここに書かなくてもいいくらい、ものすごいひどいめにあう。肉体的にも、精神的にも。
さらに、その誤った行動が大型の情報開示につながって、観客はそれでカタルシスを得る。

その辺りがポイントなんだろうか。

さらに、次のジェダイの帰還では。
ほとんどルークのせいとも言えることで、カーボンフリーズされてしまった友人ハンを、ルークは助けに行く。
仲間たちでチームを組んで行くけれど、その中でレイア姫がおとなしすぎて違和感があるくらい、ルークが先導している。

過ちによって受けた精神的、肉体的ダメージを克服し、その力を使って、被害者へのつぐないを果たした。

その辺りがポイントなんだろうか。


主人公って、大変だ。
そして人はみな、自分の物語を生きている。
それをずっと見ているだれかがいるのなら、その人を納得させるように生きるのは、大変だ。

用心、用心 (自戒)

主人公に感情移入できない。という問題があったとして、
それは主人公がおろかだから? 主人公がもっとよくできた行動をしていれば、感情移入できる?
……かというと、そういうわけでもない。

物語の始まりに、主人公が間違いを犯すことはごく普通で、私たちが洋画をみるたびにわりとキッチリ行われている。
主人公(または主人公をとりまく環境)が持っている問題を見せておくことは、むしろ「その先を見たい」という気持ちを作り出すために有効に働く。
主人公が間違いを犯していて、読み手(観客)がそれを間違いだと気付いていても、それ自体で読み手(観客)が主人公を嫌うというわけではない。
悪い仕事や暴力などに手を染めている場面から話が始まるヒーローなんて、山ほどいる。

大事なのは、それでもその主人公に同情できること。

そもそも主人公は正しい判断ができなくても仕方がないほどに酷い状況下にあるなど、
間違いを犯してしまう状況に、やむを得ないという説得力があること。
または、その間違いによって、直後、主人公がかなり酷い目にあうということ。
根は悪いやつじゃないということを早めに示しておくこと。

それらを冒頭でやり損なうと、このバカがこの先どうなっても知ったことじゃない、好きにしてくれ、
と思われる新たな主人公が生まれてしまう。

用心、用心。

平行世界

長年の付き合いだった先輩が亡くなったと知る。悲しい。同時に、〆切に遅れつつ楽しい短編小説を書いた。
いつも程度には楽しく書けたと思う。もしかしたら、いつもよりも楽しかったかもしれない。
そのかわり、初稿を終えた今、上ってきた山が突然、崖になって終わったような気持ちに。
人の死と、やるべき仕事とは、いつも交わらない。2つの平行する現実世界。

区の健康診断

「特定健康診査」に行って来た。いわゆる区の健康診断。
全国の対象者のどのくらいが実際に行っているのか調べてみたら、
23年度で44.7%。
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000035470.html
中でも東京都はずば抜けて高くて61.6%。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/info02a-2.html
ほうほう。
数値にはとくにおどろきがなかったけど、23年度の実施率の速報値が出るのは25年の3月、確定値は26年1月、ということを知って、おどろいたというか、どうしてそんなにかかるのか想像ができないというか、お役所のお仕事には私などには計り知れないような「気にするべきこと」が山ほどあるのだろうなとしみじみ思った。

アナと雪の女王

アナと雪の女王、なかなか楽しかった。
あれ? 用意された設定、生かし切れてなくない? とか、小さな矛盾があるよね? とか、いろいろ思ったんだけど、そんなことよりも、

そのときどきのキャラクターの目的
そのときどきの障害
そのときどきのキャラクターの感情

が、明瞭になっていて、それが気持ちの良いテンポでわかりやすい映像にのっていれば、映画として楽しく見られる、ということのお手本みたいな映画だと思う。

設定、ちゃんと説明しなくちゃ。ここの理由、しっかりわからせなくちゃ。
そういう罠にはまらず、スッ飛ばせ。
名作度が落ちてしまうかもしれないけれど、それよりも娯楽作としての価値を取れ。
エラい人にほめられたい、っていうのも、正直あるけど、二の次にして。
映画評で星5つほしいけど、それも二の次にして。
まずは、できるだけ多くの人が楽しめる映画を作る。

そんな思い切りが、共通認識としてチーム内に流れているんだと思った。
自分たちの仕事を、かんちがいしないこと。
大切なことだと思う。

そして、心に残る1曲が、しっかり用意されている。
この娯楽に2時間近く費やしてよかった、と、あとで思い返す手がかりになる、引き出物のような歌。Let It Go。

それで映画は、娯楽として成功できる。

で、それは簡単? いや、それがそうでもなくて。
で、それで満足? 作り手は、たぶんそうでもなくて。一部の観客も、そうでもない。

文豪ごっこ二回目 前半

二回目となりました文豪ごっこ、舞台は湯河原でした。ちなみに一回目の記事はありません。

三月頭。横浜から、東海道本線で一時間ちょい。
湯河原駅から、バスで20分ほど。

仲居さんとの天気の話、もてなしのお茶と信玄餅。
そこから自主缶詰は始まります。

旅館は、奥湯河原「加満田」。

風呂。風呂。
名案浮かぶ。
構成を書く。

夕飯なしのプランで宿泊。腹が減ったら、駅弁です。
デラックスこゆるぎ弁当

構成。風呂。構成。風呂。

明けて、風呂。
朝ごはん、非常にオーソドックス。
だが、そこがいい。
午前中は散歩。
湯河原はまさにこれから、梅の見頃。
これが我が領地なら、さぞ誇らしかろうのう。
つづく。

3月11日14時46分の自分を思い出しておく

 あの日、私は知人の本を作る打ち合わせをしに、勝どきに行った。
 約束の時間の20分以上前についた。まずは腹ごしらえをするつもりで、地下鉄駅から地上に出る。

 地上に出ると、そこは新しいビジネス街。舗装も高層ビルも、何もかも新しい。
 そのあと起こることとは、とくに関係がないだろうけれど、奇妙なこととして覚えているのは、その美しい舗装の中で、数枚のタイルが割れて浮いていたこと。目に付いたのは、子供達がいじって遊んでいたからかもしれない。

 見回すと、交差点の向かいのビルに、何か手軽に食べられる店がありそうだ。
 4車線ほどあったか、広い道路を渡って、向かい側につく。辺りの様子を見ようと歩き出すが、すぐにその価値はなさそうだと気がついた。交差点から離れたら、探しているような店はほとんどないように見える。
 そこで、きびすを返した。

 そのとき、異変に気がついた。
 となりに停まっているバスが、ギッシギッシと揺れている。
 映画などにしばしばある、車の中でヤッちゃっているカップルを外から眺めるシーンを思い出す。ギッシギッシ……エロい。
 しかし待て。それ、バスだから。中でだれかが揺すっているとか、あり得ないから。
 揺れているのは、地面だった。

 交差点には、あまり人がいない。
 広い道路。まっすぐな道。それをビッシリと囲んでいるビルが、ゆすられている。
 街灯も揺れている。
 どこかに動いたほうがいいのだろうか。もしかして、ビルの近くにいると、割れたガラスが降ってくるかもしれない。
 離れたほうが――。

 と、見ると、車道は自動車でいっぱい。何事もないかのように、走行を続けている。車道には出られないのだ。
 とりあえず、交差点の角の、歩道のはしに歩く。揺れているが、歩行はできた。
 そこで信号が変わり、車列は停止する。まだ揺れている。ガラスは落ちてこない。どこまで大きくなるのか? 車道に出ることよりも、立ち止まって身体を支え、様子を見ることに集中する。
 すぐ近くにバイクが停止していて、ドライバーと目が合った。
「すごいですね……」「でかいねこれ」
 そんな会話を交わしたかもしれない。
 ところが、そのときに信号が再び変わる。
 車列は動きだし、バイクも停止しているわけにはいかず、走り出す。
 車列は停まれないのだ。不思議な気がした。歩行者には逃げ場がない。
 幸運にも、周囲のビルにガラスの破損はなかったらしく、物が降ってくる気配もなかったから、混乱は生じなかったが――。

 揺れは収まってきた。それでも、周囲のビルは、ゆったりとしなり続けている。
 気が落ち着いてきて、それを動画で撮影したり、周囲の人と会話したりした。
 何が起きたのか、わかっているようで、わかっていなかった。
 向かい側に渡る。
 ビルを見上げる。周囲に混乱はない。
 携帯電話が鳴る。降雨を予測するアプリだ。
 すぐに、サーッと雨が降った。
 小さな雲はすぐに行き過ぎ、元の、薄い日光の差す曇りの日に戻る。

 ――打ち合わせはどうなる?
 電話は通じないだろうと思ったのか、試したのか、覚えていない。
 そうだ、空腹だったんだ。
 もう一度、交差点を渡る。
 向かいのビル1階、ドトールに入る。

 店内には、さっきの地震より前からいたであろう客が、まだいる。
 いくらかの電灯が消えているようだったが、店内は正常だ。
 カウンターで、若い店員に声をかける。
「すごかったね」
「すごかったですね」
「大丈夫なの?」
「ええ、やってます」
「じゃ、ミラノサンドCとブレンド」
 ちょっと驚かれた気もする。その顔を見て、自分でも、ああそうか、と驚いた。
 今から考えると、自分でも信じられないことのようにも思うが、揺れがいったん収まって私が最初にしたことは、食べることだった。

 食べながら、何が起きたのか、と考えた。
 打ち合わせはできるのかな、とも、考えた。
 Twitterを使って情報を得ようとしたけれども、まだ震源すらもつかめなかった。
 何が起こったにせよ、今、ここで問題なく食べられるのなら食べておいたほうがいい、という考えにだけはあった。そして我が胃は、正常に食べ物を受け付けたのだった。
 その後、エレベーター停止のため目的のオフィスへは着けないことがわかり、単独行動で交通機関の混乱を確認し、実家の安否を調べ、そして東北の津波の恐ろしいニュース映像を新橋の交差点で目の当たりにし、夜中を迎えることになったと思えば、まあそれで良かったのだろうと思う。

 とはいえ、今から結論すれば、あの夜の東京で、飢える心配はなかった。
 あの夜、真っ暗な被災地で、寒さと闘いながら朝を待った人たちのことを思えば、東京の帰宅困難者の話など、ほとんどは気楽な冒険譚に過ぎない。
 それでも、あの長い夜は、なんだったんだろうと今でも思う。

 次々とおそろしいニュースが入り、ひっきりなしに地震速報のいびつなチャイムが鳴った、あの夜は。
 知らない人からもらったチョコレートの甘さで、短い眠りを味わった、あの夜は。
 あの夜に思ったことは、なんだったんだろう。
 夜明けまで絶望せずに自分を保つ責任を、個々人がそれぞれの場で、それぞれの難度で背負わされた、あの夜。 
 予告もなく襲い来た重責に、心が傷ついた。
 それぞれの大きさ、小ささ、深さの傷に、意味はあるのか。それらが交わることはできるのか。
 今も社会の何かをそれが、傷ついたことを気付いてもらえなかった子供のように、無自覚に動かしてはいないか。

 単独行動で、とはいえ、午後から夜にかけて、多くの人に声をかけた。
 ひと言、ふた言でも、言葉をかければ、ほとんどの人が快く返してくれた。情報を交換し、ワンセグを見せてもらったり、携帯の充電用ケーブルを貸したりした。
 そこで出会った人の銀座の事務所に、朝までお世話になったのは、また別の長い話。

うん、録ってるよ

ねえ、昨日の音、録ってある? → いや、録ってない/うん、録ってある。(「ない」は「ある」の反対)
ねえ、この音、いま録ってる? → いや、録ってない/うん、録ってる。(いない、いる、の「い」が省略されている)

[文末に追記あり]

先日、バンド練習が終わったときのこと。
そのタイミングを見計らってか、その日に来られなかったメンバーからメールが届いた。

「今日の練習、録音した? 聴きたいです」

練習後の一杯を飲みながら、仲間がそれに返信しようとしていた。

「『うん、録ってるよ』って送るよ」

んー? それだとまるで、まだ練習しているみたい。
録ってるよ、って、今まさに録音している、っていうことだもんなあ。
とっくにいつもの練習時間は過ぎているんだから、そんなメールを受け取ったら、相手は不思議に思うよ。

と、思った私は、「うん、録ったよ」にしとけば? と、つっこんだ。
つっこみながら「なんでだろ?」と心の中で首をひねった。

どうして、今録っているわけでもないのに「録ってるよ」なんて文を書くんだろう?
今日はいつもよりながぁーく練習しているなんて思わせて、欠席メンバーを不安にさせたい、ってわけでもないだろうにね?
単なるまちがいかもしれないけど、まちがいにはまちがいの理由がある。
すべての言葉選びには理由がある。
と、私はつねづね、思ってる。

で、それから十日以上経った今日、別のメールを書いていて、ハッと気がついた。

あの「録ってるよ」は、「録ってあるよ」の略のつもりだったんだ!

「録ってあるよ」の略に「録ってるよ」は、私だったら使わない。
「録ってるよ」は「録っているよ」の略として使う。
その区別は、上の囲みの中にあるようなこと。
「こぐれさん、締め切り過ぎてますけど、原稿、やってありますか?」
「うん、やってるよ」
 これでは、原稿は確実に、できていない。今、やってます。やってあってほしいのに。

まあ、そんな、略しかたに関わることだったのか。
仲間は、「うん、録ってあるよ」と返事したかったんだ。
「録ったよ」よりも、「録ってあるよ」のほうが、
「練習を休んだきみのために録っておいた」という含みがある可能性を感じさせて、あたたかい。
それが、休んだことを心配している人への、思いやり。
そのときには見抜けなかった、優しい意図がわかって、ホッとする。

本当に「きみのために」録ったのかどうかは、また、別の話だけどね!

すべての言葉選びには、理由がある。
1文字の選びかたにさえ、その人の心や、生きてきた歴史がひそんでいる。
必ずしもこわいものではないけれど、気になる相手のことなら、それも気になる。
そういうもんだと思ってる。

[追記]

言葉の短縮についての感覚は、地域によってもだいぶちがう、という、ご指摘をいただきました。
この話の相手のルーツは神奈川~東京で、私とほぼ同じ。だから言葉についても、同じ感覚を持っているだろ、と決めつけているところが私にはあるのかも、と考えさせられました。
実際には、たとえ県内でも地域の差で言葉がちがったりすることは、ありますよね。それに、世代間の差もありそう。日常会話で使う言葉としては、どれが正しくどれがまちがっているとは決められません。
とはいえ、個々の言葉の世界を尊重するあまり、その境界の向こう側へ意図を伝える努力をしないなら、コミュニケーションの道具としての言葉は生きてこないし……。
そこらへんは、常に語られ続けている普遍的な問題なように思います。
同時に、その境界の向こう側の意図をくみ取る、感じ取る能力もまた、大切なものだと痛感します。

ということで、「これは間違い」という先入観を極力、排除するように努め、手を加えます。
どこまで公平になれるか、わからないけれど……
ありがとうございます!

書いてるところ1

良いアイデアが浮かんで、うわーあたしって天才か、と思って仰け反ると、後ろの押し入れが開けっ放しで中身が崩れそうなのが見えた。
思い直した。
あんな押し入れは天才のじゃない。
もしそうだとしたら、天才さんに幻滅しちゃう。がっかり。